國文華協会



壇ノ浦で平氏は滅ばず(岩村城の戦い)


 写真は平成29年4月14日に撮影した岩室山。この山には平安時代から城が存在し、岩村城と呼ばれていました。岩村城を築城したのは紀伊の土豪一族、湯浅党です。湯浅党は平治の乱の際にいち早く平清盛の下に馳せ参じて力を付け、清盛の時代に熊野古道の周辺を拠点とした紀ノ國の伊勢平氏(桓武平氏維衝流)と良好な関係を作りました。

 1185年4月25日に長門を拠点とした平知盛は壇ノ浦で頼朝軍と戦い、安徳天皇の自決により安徳朝は滅亡、平家軍も組織的な戦力のほぼ全てを失います。

 頼朝軍は平家の追討を命じますが、壇ノ浦の戦いの前に屋島の戦いに敗れた重盛軍(小松家)は、多くが紀ノ國に逃れており、平重盛の子、忠房は古くから友好関係を持っていた湯浅党を頼り保護されていました。この忠房の存在は頼朝の知る所となり、頼朝軍は忠房に兵を差し向けます。しかし、この地域が元々桓武平氏の多い地域でもあり、また壇ノ浦で瓦解した平家軍の残存勢力が集結し、戦いは三ヶ月に及ぶ長期戦になりましたが、結局落ちず、最終的に頼朝は岩村城の平家軍全員に助命の確約をして講和しています。

 忠房本人は結局は殺害されてしまいましたが、岩村城のあった紀伊國在田の伊勢平氏は、友好関係にあった湯浅党の保護の下、多数残り、関係の深かった湯浅党の勢力下に置かれた事で勝手に他の氏を名乗る事が出来なかったようで、織田信長が桓武平氏維衝流を名乗るまでは目立った活躍がありませんでしたが、織田信長の活躍後は堂々と「平氏」を名乗って武家社会に復帰した様で在田の伊勢平氏は旗本になったりもしています。(もちろん、北条時政などの伊豆平氏(桓武平氏直方流)などの坂東平氏は頼朝側で参戦し鎌倉幕府の執権を歴任したので坂東平氏は戦国時代も活躍し、坂東平氏の武家は沢山いましたが)



【参考記事】

「岩村城はしぶとく、攻め落とすのは至難の業であった」湘南ジャーナル(2014.5.16)

「「平家物語」(長門本)には、湯浅氏の祖宗重が平忠房ら平家の残党とともに鎌倉幕府に反旗を翻し立て籠った岩村城という城が登場する」『平小弁のブログ』(2012.12.19)








(五瀬:平成29年4月21日) 






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