國文華協会


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【私見:瀬戸際外交について】

 「瀬戸際外交」なるものを得意とする人達がいるようです。

 散々、何処かしこを「火の海にする」だとか、「核攻撃する」だとか、日本人を語って他国でVXガステロ殺人を行ったり、旅客機を爆破したり、要人を暗殺しようとして爆弾テロをしたり、警官から奪った拳銃で他国の大統領を狙撃したり、と滅茶苦茶な人達が亜細亜にはいるそうです。

 有名な保守系の評論家の方が「(北朝鮮の)主体思想の基礎は儒教」と書いていましたが、今回の金正男暗殺事件で、その事は疑いがないと確信しました。

 儒教は日本でも直系と傍系に身分の上下貴賤を決めるなど異常に身分に差をつける思想で、年長と年少の身分も生まれながら決まったものであり、動かし難いものとされます。

 日本でも足利義満以来儒教が武家にも取り入れられ、直系一子相伝が定められました。これは革命的な結果になりました。儒教導入以前は氏族や地縁でまとまって他の氏族と争ったりしていました。この時代は氏族内に身分の上下貴賤はあまりなく、平将門、平清盛、平清盛などの桓武平氏高望流が活躍しましたが、後の儒教の基準では、高望流は直系ではなく、桓武平氏の儒教でいう直系は公家として幕末まで存続していました(清盛の正室がこの家の出)。また藤原氏も藤原不比等の子達は南家、北家、式家、京家と、ほぼ平等に相続していますが、儒教の基準で言えば直系は長男の南家という事になります。南家は結局藤原豊成が男子に恵まれず絶えますが、藤原南家流の工藤、伊東、伊藤などの支流があり、こちらが本流という事になりますが、この儒教的な直系傍系、年長年少の身分差は矛盾を生じやすく、一旦絶えてしまうと誰が変わりに一番身分が上か、そもそも直系と傍系の身分の上下なるものが本当に儒教の理気哲学に沿った形であるのか、という点がさっぱり分からない位玉虫色で混乱したものです。(余談ながら藤原豊成には男子は無かったものの娘がおりましたが、人間関係の問題から奈良の當麻寺に出家し、紀伊の雲雀山で亡くなったとされ、今でも供養が続いています。現在の住職は藤原南家の傍系なので不比等の長男の子孫という事になるが、別に公家でも何でもない。知っての通り藤原氏で最も栄えているのは不比等の次男の北家の系統で、公家の最上位であった摂関家は皆北家の系統です。要は儒教の上下貴賤なんて当てにならないという事です。)

 なぜ、兄殺しが儒教的かというと、日本で室町時代に儒教が武士にも広まった結果、何が起こったかというと、いわゆる「下克上の戦国時代」です。儒教では生まれによる身分の上下貴賤があるとされます。弟よりも兄が上、目上でも傍系より直系が上という具合になります。こうなると、昔の氏族主義の時代にあった様に神武天皇が活躍して兄も大いに喜んで支援したり、傍系から清盛の様な豪傑が出ると伊勢平氏の多くが喜んで支援するという事(そもそも伊勢平氏の祖である維衝自身が直系の家柄で名を挙げたのではなく、六男であり、武勇で支持を集めた人物)が無くなり、分家は本家がいる限り活躍の場もなく意見も出来なくなり、弟は兄がいる限り活躍の場もなく意見も出来なくなってしまいました。そこで儒教社会では傾向的にこの様な事が起こります。それは、常に身分が上の者の足を引っ張り、失脚させてしまおうとする傾向です、あわよくば殺してしまえ、という訳で、儒教全盛の日本でも親殺し、兄殺しは大いに流行しました。また、氏族や地縁でまとまっていた源平合戦(平家側の源氏もいれば、頼朝側の平氏もいるが、これらは主に東西の地縁によるところが大きい)とは違い、同じ家門で本家に分家が仕えていたのでは出世の見込みが無いので、関係ない氏族の家臣になったりする様になった事もこれを助長しました(一種の多文化共生社会です。)。儒家達は「恐ろしく倫理が乱れている。儒学を以って風紀を正さねば」と言って、規律を強める事を求め、多くが実現した結果、下克上はより完成されたものとなり、足利幕府は滅びます。(因果な事に、戦国時代に新風を吹き込んだのは伊勢平氏の傍系、織田信長で、儒教的には全くの下の下であり身分の低い家の出でした。※この当時最も儒教的に身分が高いとされたのは足利家で清和源氏。)

 儒教社会というのは、年がら年中、目上のものの失敗を期待し、妬み、足を引っ張る社会であり、あわよくば兄でも殺してしまう社会です。一見、矛盾している様に見えますが、儒教の極端な特徴の一つである「一貫性のなさ」がこれを可能にします。儒教は仏教などが殊更厳密に論じる「一貫性」について重視しません。従って整合性がなく突拍子もない、ダブルスタンダードな理屈を大量生産出来、各論ではすこぶる雄弁です。つまり「徳治主義」という概念があり、「今現在権力を持っているのは先祖代々蓄えた徳があるからだ」という考え方で、要は「強い者が正しい」という考えです。江戸時代、後に「尊皇論」とか「復古主義」と言われる運動はこれを否定する論陣を張りました。要は徳治主義の「将軍は先祖代々の徳によって日本を支配している」という考えに対し「将軍は朝廷から執政を委ねられているのであって、主権は朝廷にある」としたものでした。確かに誰が見ても征夷大将軍というのは朝廷の任命によるものであり、官職の一つでしかないのですが、儒家達は徳治主義の概念を使って、公家諸法度を定めさせ、これは公家だけでなく帝の行為も制限するもので、本来、帝の行うものである尊号の付与ですら、最終的には老中の許可を以って決定される有様でした。この「強い者が正しい」という最早倫理と言って良いのかどうか分からない理屈(仏教も世間の法として「強い者が勝つ」と考えますが、これは宿命であり、人が目指すべき生き方を論じる倫理ではありません。)が、北朝鮮や韓国の一部で未だ影響が強く残っているのです。だから、兄殺しや、無差別テロなど平気なのです。(孔子が聞いたら怒ると思うが、曲解を重ねた現在の儒教は最早、孔子の考えとは全く違うものになってしまっている。)

 この社会は確かに一見体制が安定している様に見えて仲間同士で足の引っ張りあいばかりしているので、対外戦争や異民族との戦いには弱いと言えます。唐土は儒教の本場ですが、異民族の侵略によってしょっちゅう滅んでいます。日本でも神道の信仰の暑かった平清盛が藤原北家から権力を奪い返しましたし(平氏は皇別、当時の藤原氏は関東の豪族出身。異民族とまでは言えないが、当時は気風の異なる集団だった。)仏教の崇敬者であった北条時宗はモンゴル帝国軍と戦って勝利しています。足利は義満以降儒教の導入を進めますが、結果が戦国時代で、儒教に最も相応しくない人物、織田信長が台頭します(正し信長は伊勢神宮を再興するなど神道への奉仕は怠らなかった。)。江戸期も儒教を導入した江戸徳川家は振るわず、朝廷との険悪な関係を残したまま絶え、江戸徳川家に対抗する傾向の強かった紀伊徳川家から、吉宗が出て儒家の意見を押し切って蘭学解禁などを行い大いに栄えました。老中松平定信が出て儒学はまたも主流の座につきましたが、これとて、またもや伊勢平氏の傍系から本居宣長が出て、徳治主義を否定し、古伝説を信じる事を訴え、紀伊徳川家がこれに共鳴、紀伊家は将軍家茂を出しますが、家茂は二百年ぶりに上洛し、朝廷の臣である事を明確に示し、この時点で徳治主義は放棄された形です。明治元年頃までは復古主義の影響は大きかったのですが、明治十四年ころからは、逆に後退して徳川家茂上洛という快挙を成し遂げた尊皇論以前の儒教的な考えが巻き返しているように思えます。特に日露戦争までは旧海援隊系の人脈や紀伊派などが健在でしたが、日露戦争後を見れば儒教に対峙する卓越した識者や海外通はほとんどいなくなり、むしろ古い儒教信仰に流されている感すらあります。かつてソ連式の考えに通じた策士を擁していた北朝鮮も最早儒教的なものに流されている感すらあります。

 北朝鮮は「足の引っ張りあい社会」である以上、対外戦争には勝てません。しかし、徳治主義が可能にする詭弁があり、嘘を言おうが、他人に迷惑を掛けようが「強い者が正しい」としてしまえる利点を活かした(普通はここまでおかしな事を言っては誰もついて来なくなるだろう。)、瀬戸際外交で譲歩を引き出そうとするはず。最早、北朝鮮に妥協や譲歩は、全く以って無意味だと思われるので、今後予想される北朝鮮からの交渉の提案には「核、生物化学兵器、弾道弾を含む全ての軍備の即時放棄」、「金一族の公職追放」、「海外在留朝鮮人の人権を保証した形での帰国支援」などを「交渉の余地のないもの」として提案し、あらゆる施策によって履行させるべきです。妥協や譲歩は儒教国家には無効です。儒教国家は「口だけで何も出来ない」事を良く理解し、圧力を唯一の方法として向き合うべきです。










 (五瀬:平成29年4月13日)












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