國文華協会


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【國文華をかえりみるという事】

本居宣長は『玉勝間』の中でこう言っています
から國の書をもいとのひまにはずゐぶんに見るぞよき漢籍(からぶみ)も見ざれば其外國(とつくに)のふりのあしき事もしられず又古書はみな漢文もて書たればかの國ぶりの文もしらでは學問もことゆきがたければ也かの國ぶりのよろづにあしきことをよくさとりて皇國(みくに)だましひだにつよくしてうごかざればよるひるからぶみを見ても心はまよふことなし然れどもかの國ぶりとして人の心さかしく何事をも理をつくたるやうにこまかに論ひよさまに說なせる故にそれを見ればかしこき人もおのづから心うつりやすくまどひやすきならばから書見むにはつねに此ことをわするまじきなり


【大意】
唐土の書籍も暇な時には沢山読むとよろしい。漢書も読まないならば、その国の行いの悪さも分かりませんし、古い文献は漢文で書かれていて唐風の文も知らないと学問もはかどらないからです。
唐土の事柄は、どれも好ましくない事を良く知って日本人としての心を強く持って、惑わされる事がなければ、夜昼漢書を読んでも惑わされる事はありません。しかし、唐土の常として人々は悪知恵が利き、何でも理屈を作る様に、詳しく、もっともらしい理屈を説くので、それを読めば学識のある人でも、意識せずに感化されやすく、惑わされやすいので、漢書を読む場合は常にこの事を忘れるべきではありません。


 なるほど現在でも、旗色を強く打ち出した方が分かりやすい政治などの世界では、殊更他国をほめ、或いはけなし、旗色を明確に打ち出そうとする人は少なくありませんが、ほめるにせよ、けなすにせよ、ある時は上手く誘導され、またある時は絡め取られたかの様になってしまって自分を見失っている様な人も居るように思われます。

 まず、自分達がどうあるべきかを良く心得ていれば決して迷う事はありませんが、実際には自国の文華を分かっているつもりで分かっていない人も沢山いるように思います。ましてや外国の文華などは、なおさらです。良く「大陸は儒教の国であるので目上の人を敬う事が徹底している」と、大陸文華に感心して見習おうとしている人を見かけます。ところが、そういう人に限って儒教と言うのが、直系、傍系などの家柄をうるさく言い、職業によって貴賎を付けて、一見目上の人にへりくだった様に見えて家柄や職業などが上だと分かると傲慢な態度に豹変する事を知らなかったりもします。

 日本で儒教が徹底され始めたのは足利義満が明国皇帝外臣日本国王に即位した頃、西暦で言うと1401年頃からだと思われます。平治の乱では平清盛の嫡男重盛が有名な「年号は平治、都は平安京、我らは平氏」という言葉があるくらいで、比較的氏族内平等の様な状況にあったと思われます。儒教で特に特徴的なのが直系(本家)と傍系(分家筋)の上下貴賎ですが、源平合戦(1180年)の時代はどちらが本家で、どちらが分家というのがあまり問題にならず話題が少なく良く分かりませんが(兄弟皆で平等に財産を分けて分家したりして差があまりない)、清盛の氏族である伊勢平氏(桓武平氏維衝流)は、強いて判断して見ると本家筋から相当遠い分家筋という事になるはずです。頼朝も河内源氏(清和源氏)の直系そのものとは思えず、あまり儒教的な価値観が無かった様に思われます。また戦国時代の様に氏族が入り乱れる事も少なく清盛側には割と纏まって伊勢平氏が付いています。(清和源氏武士団の聖地である住吉大社が清盛側に付いていますが、元々、社家は清和源氏ではありません。)坂東平氏も「坂東八平氏」というくらい支流が沢山ありますが、大体支流の集団毎に割と纏まって頼朝側に付いた様です。「戦記物語」であるので脚色されていると思いますが河内源氏は多くが頼朝側に付いた様です。清和源氏の佐竹秀義などは平家側ですが、当時の平家は与党側ですので平家側に清和源氏が少ないのは、逆に氏族主義で動いていた事を物語るものだと思います。

 鎌倉幕府の時代も、あまり儒教化されたとは言い難く征夷大将軍があまり世襲されていない事からも、その様に思われます。執権は北条家が歴代続けていますが、儒教化するなら、実質よりも建前の儒教化が先で有るはずで征夷大将軍が、あまり世襲されていないというのは、そもそもあまり大陸文化の導入に積極的でなかった事の現れでしょう。南朝は大陸文華の研究にも熱心であったとされますが、徹底すると言うより試行錯誤の様な感があり、後醍醐天皇が神社に対しては古来の伝統を重んじている事からも、取捨選択や試行錯誤の段階にあったものと思われます。

 結局のところ、おおよそ定説ですが、足利幕府の室町時代に武家の長子一子相伝が基本になるなど急速に日本の社会が変容したと見るべきでしょう。その後戦国時代に入り、江戸時代となるので、流石に戦国時代を評価する傾向はあまりなく、ただ乱世を沈めたという意味で織田、豊臣、徳川家康は評価されましたが、儒教的な目線では、織田信長は伊勢平氏でも不確かなくらいの傍系であるし、豊臣も儒教が重んじる家柄も高位の主従関係も無かった人物、徳川家康に至っては薬師如来の化身とされ、初期は神仏習合を敬った人物で、主君の家であるはずの織田家を家臣(旗本)にしており、儒教では主君の家を家臣に出来ないので主君の家は滅ぼすのが順当だが、家臣にしていると言う事は、おそらく殺生を嫌う仏教の影響があったのだろう。結局のところ、戦国時代は儒教は「実効性のない理念」に過ぎなかった様です。本格的に儒教が復活するのは江戸時代のキリシタン対策と明治十七年の教導職廃止(これは神道に行政が介入した言うなれば政主教従の失敗例であろう。幕末の神道復古運動の理論面は国学者達が担っており、官庁の認めた教官の様な者に出来る仕事では無かった。結局、官製教導職の導入で国学者は激減し、更に教導職が廃止された事で神官に至っては講釈が禁止されてしまった。国学者と社家の教育分野での衰退は、結局、神社行政まで江戸期の漢学教育を担っていた儒家が牽引する様な形になり、本末転倒となってしまった。)後の二期で儒教化の流れが再開したものと思われます。

 そういう理由で、戦国時代を理想の時代という訳にも行かず、キリシタン対策のために儒教を重視した江戸時代、明国の外臣になった足利の時代を良いとは言えず。結局のところ江戸時代の国学者達は、「南朝以前の文華こそ日本の本来の文華である」というところに帰着し、平安文学や万葉集を評価する事に繋がります。この代表的な人物が本居宣長でしたが、概ねこの時代の国文華を評価する思想は「南朝以前であり」、この四百年以上前の文華を復興する運動が江戸期に広がり本居家の門人にも社家や武家だけでなく商家や農民も含まれ出身地も広い地域に至っています。松阪、和歌山は言うに及ばず出雲、石見、尾張、江戸など様々です。

 正直なところ、江戸時代の様に近代的な研究手法が無かった時代の古代研究は容易では無かったはずですが、それでも江戸時代の人達は自分達の文華の原点を求めて、大昔の書物を研究し、『万葉集』の正確な読み書きに関しては賀茂真淵が大成し、最早、文意が失われてしまっていた『古事記』を本居宣長が解明し、少なくとも明治元年くらいまではこの流れが復古主義の主流であった事を考えると、たった二百年、三百年前の事すら振り返らないというのでは、確固とした「みくにだましい(日本人の心)」を強く持つと言うのは簡単ではないでしょう。

ですから、私は古い國文華の復興が重要だと考えるのです。



 (五瀬:平成29年3月21日)












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