千早城


神田明神社に参拝





 平成二十八年一月二十八日、神田明神社に参拝。

 神田明神社は、昔、大國主命の子孫とされる一族が、この地に移住して創建した大國主命を祀る神社です。

 皆様もよく御存知の通り、平将門公も祀られています。将門公が祀られているのは、慰霊の意味合いが強く古い時代の神道の慰霊の考え方を知る手がかりになります。明治維新後、本来の神武創業の精神を忘れ去った新政府による神社非宗教化という政策(実質的には神道の廃教、代わって神を認めない儒教的な「いわゆる国家神道」にするというもの)によって多くの伝統が断絶しましたが、それ以前には慰霊の方法は確かに有ったと思われます。(これについては後に纏めるつもりです。)

 神田明神社でも、一時、政府の圧力により平将門公は分遷されました。これに関連しては、いわゆる「靖国神社の分祀問題」についての記事で出雲大社の関係者の方が触れられている様ですので御紹介します。

http://www.izumo-murasakino.jp/shinto-008.html

この様に、十分な説明が神社関係者からもされているにも関わらず、論者達が自説を流布しておりますが、これは「分祀と言葉を誤用する除祀論者」だけでなく、除祀反対派ですら、一般受けしそうな、尤もらしい自説を作って論じる者もいます。

 上記の記事で分遷問題はある程度御理解いただけるかと思います。より根本的な視野で言えば、儒教は形式的な礼を重んじる宗教ですが、神道は「心」の宗教です。その神社に参拝する氏子達の心を根絶しなければ、除祀や廃祀は出来ません。事実、神田明神社でも形式的には将門公を排斥する形は取りましたが、そうさせた新政府は世界の国々から徹底な攻撃を受けて滅び、しばらくしてから将門公は再び本殿に祀られました。

 将門公を「新皇」を名乗ったとして、大悪人とする人は沢山います。しかしながら、平氏は桓武天皇の第三王子葛原親王(かずらわらしんのう)が皇室を離れ「平」の氏を授かったのが始まりですが、平将門公は葛原親王の曾孫で男系子孫です。今で言えば「宮家」に近い方であり、「皇」を名乗った事自体は必ずしも絶対的な悪という訳ではないと思います。この時代、朝廷の要職は藤原氏が独占しており、平氏の様な皇統の傍系(ぼうけい:分家筋の事)に当たる氏族には不満が有ったのも事実です。ある意味に於いては地方豪族出自の藤原氏と皇統の傍系である平氏の勢力争いの結果という側面もあったと思われます。

 歴史の中で争いは絶えず、また避けて通れぬ事も多いものです。しかしながら、戦いは徹底的に争っても、勝敗が決したならば、弔う事は非ではないはずです。そういった意味も込めて、将門公の安らかである事を祈って参りました。将門公を怖れる人もいますが、結局日本人はどこかで繋がっているもので、平氏の血筋のある人にとっては桓武天皇は共通の祖先であるはずです。その後、平将門公を祀る塚にも参拝して来ました。

 余談ながら、神道で祀る場合は、敬神と慰霊の二つの場合が主です。慰霊の場合は没後間もない人を祀る場合もあります。一般的には、雷神になって現れたと信じられた菅原道真公や、卓越した武将の才で薬師如来の化身と信じられた徳川家康公が有名ですが、奇瑞が無くても人を祀る事はあります。但し「神社」という場合は少なく、これは国語の問題ですが、一般的には稜、塚、廟、堂などの言葉を使います。一部の地域では儒教の影響なのか、人を祀る稜、塚、墓、堂の和訳として「神社」という言葉を使い何でもかんでも神社と呼んでいる様に思える場合もありますが(どう考えても儒教的で「廟」と呼ぶべきものも)、これは国語の問題であって、人を祀る事の是非を問うものではありません。

※平氏については、いわゆる「源平合戦」を誤解している人も多いのですが、壇之浦で敗れた(が史実としては壇之浦の後、親戚筋を将に立てて平家側は紀伊で挙兵を計画し、長期の籠城戦の末に講和し、一部を除き、ほぼお咎めなしで定住。落武者というより講和を引き出した英雄の様なものとされて地位は低くない。)事から「平氏の滅亡」と勘違いしている人もいますが、源平合戦で源頼朝側を後援したのも、やはり平氏の北条家であり、北条家は鎌倉幕府の執権として北条時宗などの英雄を輩出しました。おそらく数で言えばこの頃でも武家は平氏が最も多かったと思われます。また戦国時代では織田信長が平氏です。






 (五瀬:平成29年1月24日)






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