千早城


靖国神社に雪



 十二月二十日、靖国神社に雪、南国生まれの私には、ひさかたに多少はゆかしい事か、とも思ったが、さほど降らず。鹿児島に雪が降ったかと思えば火山灰だった、と言っていた旧友の事など思い出し懐かしむ。

 幸い親族に戦没者のいなかった私は靖国神社には縁がなく、比較的、京に近く本居学の本場出身の私は儒学の影響の濃い長州派とはしっくり来ない部分がありますが(國学でも平田派の仏教批判は有名だが、本居学は儒教批判が非常に強い。)、確かに儒家である吉田松陰や、平田派の系統に属す大國隆正は論としては反対側ですが、誰からも奇人扱いされ相手にされなくても信念を貫き、初期の一時だけとは言え政府内の神社行政に支配的な発言力を持つ津和野派としての弟子たちを育てた大國隆正の生き方には敬服すべき部分があります。

 考えて見れば、長州派も長州戦争では清国朝鮮との関係は良好とは言え、国内では表向きは孤立無援の朝敵軍として朝廷軍と戦った訳ですが、実際のところ全く勝ち目のない戦いであったのに良く戦ったものです。不思議はなくて、やはり攘夷派の雄であった水戸の恩恵は大きかったのでしょう。長州戦争当時は、大きな争いがあり、水戸派、紀伊派、薩摩が互いに駆け引きを演じていた時期で、水戸派の江戸での躍進は自分達の縄張りであるはずの江戸城に対する紀伊派の不信につながり、最大最強の兵力とドイツ式軍装を以って終始、長州軍を圧倒していた紀伊軍が、江戸城との確執を生じ撤退、家茂没後は徳川頼承が将軍継承争いを辞退する事によって吉宗以来の「紀伊=幕府」体制は終結、親ドイツ親米派で清国朝鮮を軽んじる傾向のあった紀伊派から、攘夷派の水戸派に政権が移りました。この段階で明治維新は八割は完成したと言えたはずです。いずれにせよ長州派は勝ち目のないと思われた戦いを朝敵として朝廷軍と戦いぬいた訳です。その後は攘夷派の雄水戸と攘夷派の長州が戦い、水戸派に見切りを付けた薩摩は、幕府側を堅持した旧来の盟友会津と戦う事になり、複雑な様相となります。明治維新の尊王思想の始まりであった紀伊、攘夷派の雄水戸、最も重要な決断をする事になった薩摩も、多くの勢力が西南戦争までに滅びました。(紀伊だけはあまり滅ばず、陸奥宗光が西南戦争に呼応して紀州藩陸軍を東京に向けようとしたり、福澤諭吉派(慶應閥)を支援したり、神社合祀反対運動では、にわかに地縁で団結して反撃したりしてますが)

 なんといいますか、良しと思って争うという事に関しては、その論で争い、力で争い、非難したとしても、やはり信念を曲げない人達には畏敬の念を持って見習う所は見習うものだと思います。

 無論、西南戦争で敗れた薩摩軍などの、合祀問題については、部外者なので、どうこう言うつもりはありませんが、信念で戦った人々は薩摩軍も会津軍、長州派もいずれも尊い人々ではあります。逆に形式からいうと、薩摩は意外に関西関東と交流があり紀伊同様古い神道が好まれる地域の様です(薩摩島津家の起源は大阪の住吉神社にあります。)。したがって若干長州系とは好まれる様式が異なるので、薩摩紀伊朝廷の様な古い神道の様式が好まれる地域に関しては熊野詣で有名な熊野神社や、大國主命の系統の神社で慰霊を行う形式の方が土地の人々の気風に合っているかも知れません。江戸時代の古い神道では亡くなった方を直接祀るのは墓、稜、廟、堂などであって、神社としては幽世を司るとされる熊野権現や大國主命に慰霊の祈願をする方法が一般的であると思われ(神に亡くなった方への御加護を願う。神田明神社は歴史のある大國主命を祀る神社であり、平将門が祀られたのは慰霊の意味合いもあると思われる。)、そういった様式が良いと思われます。(江戸時代、神社での葬儀や慰霊は有ったらしいのですが、明治に政府が禁止して、伝統が絶えてしまっていてよく分かりませんが、確かに神式の慰霊は有ったはずです。)おそらく、適しているのは神田明神です。無論、関係者が望むのであれば、靖国神社が薩軍の方々などを受け入れてくれれば、それが良いでしょう。しかし、神田明神や、寛永寺、増上寺で慰霊祭をするという方法もありますし(神仏分離、というのはやはり儒教の影響が強く、國学派による批判では「仏は外国の神であって、自分達の神を尊ばず外来の神を尊ぶのは本末転倒」という意見もあり、自分達の祖霊を敬った上で仏教を尊ぶ分にはあまり問題がない様に思われる。現状神式の慰霊の作法がほとんど残っていないので致し方あるまい。)、水戸派会津派に関しては名前を数え挙げなくても、東照宮の存在自体が、一つの徳川軍慰霊の意味合いもあるものと思われます。



 (五瀬:平成29年1月21日)






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