千早城


明治神宮を参拝



画像はWikipediaより転載

 1月9日に、知り合いのお誘いで明治神宮を参拝。20名ほどの団体での参拝となりました。明治神宮は比較的新しい神社で、明治天皇を御祀りする神社ですが、一般の市民らの要望が結実して広く市民等の寄付によって出来た神社と事で、無論その由緒に相応しいものがあります。
 実は、主たる祭神として御隠れになって間もなく神社に祀られると言うのは稀な事です。例外的に一部の儒教系の人達は模範とすべき人物などを祀る神社を作りますが、近畿などでは基本的に「塚」や「稜」「墓」「廟」と呼ばれ、遺体の有無に関わらず「墓」である場合もありますが、一部の儒教系の人達は「廟」でも「塚」でも「神社」と呼ぶようです。
 神道の神社と儒教系の廟の違いとして、神道は「神」を祀るものであって(したがって、御隠れになって後、奇瑞などがあって初めて祭神となります。※神田明神は大己貴神を祀る神社であり、平将門は「神社」に祀られたのであって、平将門を祀っているから神社なのではありません。単独の場合は「塚」などの名称が用いられる。)、儒教の場合は「礼」を学ぶために祭祀を行うものです。どういう訳か、近畿や江戸では儒教の廟は出来るだけ中華風に建物を作って孔子などの像などを置くのが普通ですが、一部ではは作法も含め全て神社そのものだったりしますので、見分けが付きませんし「神社」と呼ばれます。※これは私も、儒教をするつもりで形式が分からず神社風にしてしまったのか、神社を真似るつもりが思想が分からず儒教にしてしまったのか分かりませんが、儒教そのものの「神社」は確かにありますし、多くの神社が儒教の影響を多少なり受けているのも事実です。

 では、御隠れになって間もない方を祀る神社は神道ではないのか、という疑問が湧きますが、そうでもありません。有名な例では東照宮があります。徳川家康公は人智を超える優れた才で薬師如来の化身と考えられました。したがって、生前の活躍自体が奇瑞であり、神の化身と考えられたので東照大権化として東照宮に祀られています。
 そういう意味では、明治神宮は正式な神道の神社であり、皇族や公家など近畿系の人達が関与した分、伝統的な形式はしっかり整っている様に思えます。また明治神宮の場合、御隠れになってからの市民等の要望が虚飾ではなく本当に強かったこと自体が奇瑞との言えると思いますので、正式な神道の神社と言っても差し支えないでしょう。

 明治天皇は特別苦労された方と言えます。明治維新後は本当に厳しい時代であったと言えます。伊藤博文に辞表を叩きつけられ、維新当初の勢力が西南戦争終結までに下野した後、主流となった長州閥の背景を以て辞表を叩きつける伊藤には怒りを感じたとは思います。今とは違って毛利敬親が「(自分の意見を出せば、家臣に、)自分が殺されていたであろう」と回顧した時代のすぐ後です。

 「わしは辞表を出す事も出来ぬ」と苦言を漏らすこともあったとされますが、自らの意思を抑えて苦境を耐えたのは、一重に再び無益な争いで人々を悩ますまい、という心であったと思います。

 皇室典範作成時には國学者などを中心に譲位を認めるのが普通という意見が常識で、伊藤博文派のみが「仏教の悪癖」や「権臣による脅迫の事例あり」として反対したものです。実は私は伊藤博文説よりも皇室・國学者説が本来の形だと思っています。伊藤博文が譲位を「仏教の悪癖」や「権臣の脅迫」として論題とした事自体が論点のすり替えであって、徳川幕府全盛期には幕府が朝廷に介入する事も多く人事などでは問題も生じています。しかしながら流石に幕府も「譲位をするな」とは言えず、ある意味「譲位」は皇室に残された伝家の宝刀として存在しました。孝明天皇と幕府が和解協調する前に険悪な時期があり、孝明天皇は譲位をほのめかす事で、幕府に対して釘を刺した事があります。同様に徳川家茂も征夷大将軍職の辞意をほのめかせて朝廷から譲歩を勝ち取ったりもしています。國学が支持され始めた事もあり、御法度などで帝を縛る事が大変な不敬と考えられ、臣下は辞意を最大の抗議の意思として行うのが普通になります。また帝も残念ながら兵などの実権を直接持っていないので譲位をほのめかす事が最大の批判となっている訳で、皇室典範作成の段階では「譲位」は「引退」の意味以外では帝に残された最後の手段としての意義が大きかったはずです。要は伊藤博文が封じたかったのは、帝の政治的発言力であって、実際に漢文で辞表を出すなど侮辱の様な事までして駆け引きを有利に進めたので、明治天皇の「わしは辞表を出す事もできぬ」という発言に繋がったのでしょう。仏教については歴代天皇が厚く信仰してきた事もあり、そもそも皇族からの批判なし、「二君なし」は漢学思想であって、日本では神代から神々が話し合って決めるなど二君も三君もあり、これは神武東征を見ればよくわかるし、昭和天皇もそういった旨を発言されています。

 しかしながら、あの時代、明治天皇が自説を訴えるなどして強く権臣達に指示したとすると、大混乱が予想されたと思われます。本居宣長学などは湯武放伐を認めず、公武合体派などの支柱になりましたが、儒家であった吉田松陰の場合は湯武放伐を認める考えであって、但し書きの様に天皇は例外であるとしていますが、儒教論理から言って、この理論は「徳」がなくなれば天皇を放伐しても良いという結論に容易に発展するものである事は当時の人達には理解出来たと思われます。もちろん一部の権臣がその様に行動すれば日本は再び大混乱に陥ります、だから明治天皇は人々の為に耐えたのだと思います。




 (五瀬:平成29年1月16日)






千早城 トップページへ






inserted by FC2 system