千早城




南方熊楠による神社政策反対運動


 南方熊楠は、慶應三年に紀伊國田辺の商家に生まれました。両親は藤白神社の熱心な崇敬者であり、神社の言い伝えで「藤、熊、楠」いずれかの字をもらうとよいとされていたので、「熊楠」と名付けたそうです。

 高校(旧制中学)時代には、教師の鳥山啓に博物学を勧められたとされます。この鳥山啓という方は作詞家としても有名だそうですが、相当な人物であったようです。田辺の農家の二男として生れ、田辺藩士の家の養子となり、十五歳で和歌山市に出て本居宣長家の分家にあたる和歌山本居家の本居内遠から国学を学び、慶應二年には第二次長州戦争に砲兵として従軍、大村益次郎等の率いる長州軍と戦い弾薬不足により撤退。御一新の後はイギリス領事館勤務などを経て高校(旧制中学)教員、華族女学校(現学習院大学)教授などをされたとの事。
※ 本居内遠 本居大平の娘婿、和歌山本居家二代目、『紀伊続風土記』などを編纂。門人に千家尊澄(出雲大社大宮司)など。

 南方熊楠は高校の恩師を通じて本居宣長に通じる文脈でもあります。
本居宣長―(養子)本居太平―(娘婿)本居内遠―(弟子)鳥山啓―(生徒)南方熊楠


【大学を中退して留学、帰国】
 明治十九年に南方熊楠は大学を中退。研究熱心であったが、歴史や生物学に没頭するあまり、他の科目で落第点。米国に渡る。生物学の論文をNature誌などで発表し好評。明治二十五年英国に渡り、論文を寄稿する傍ら大英博物館に就職。明治三十三年、十四年ぶりに帰国。明治三十九年田辺の宮司を務める家の娘と結婚。


【神社政策の反対運動】
 明治四十年には四十三年まで続く新政府の神社政策への反対運動を始める。明治維新には神道の影響力が相当あったのは事実ではあるが、旧来神道や旧来国学者達は漢学を信奉する吉田松陰門下などに押され、早い段階で主役の座を奪われる事になり、明治維新で活躍した愛宕通旭等保守派公卿や国学者達による政権転覆計画であった二卿事件の後は、東京奠都に先立ち伊勢神宮の鳥居が倒壊した事で伊勢の神官は驚愕して新政府に神の啓示かも知れないと連絡したが、人が作ったものだから倒壊して当然、という「神も仏もあるもんか」的(実は長州派などに人気のあった儒教では祭祀は古代の礼を学ぶものとされ、無神論的傾向が強い)で長州派寄りの福羽美静(一応、平田派国学者の弟子ではあるが、)が神社政策の主導権を握る。また旧来、神社は社領や神田を持っており、これは非課税であり、守護職(大名など)の知行(行政区)は問題が起これば幕府か朝廷(朝廷が介入するのは近畿の一部のみ)が介入し、御法度が適用されるが、社領には御法度が適用されず幕府も介入出来なかったにも関わらず、新政府は治外法権を奪って、重税を課して神社の運営を不可能とさせた上で新政府の予算で運営されるものとしてしまった。更には社家を補助的なものとして神社そのものを新政府の支配下に置こうとした。明治三十三年には内務省神社局が設置され、初代神社局局長に儒教の影響が強い長州出身であり、朝鮮王族の子孫で日本の神道となんら関係のない李家裕二が局長となるなど、神社政策は益々悪化した。なお、江戸時代には神式の葬祭があったとされるが、神職以外には許されなかったので明治維新で許可される事を期待した神社関係者は多かったし、当初は、その方向で進んだ、が結局これは全面的に禁止され、最終的には神社は宗教でない、として宗教的活動を禁止された。

 新政府の方針を嫌った出雲大社などは国家神道以外の仏教諸派などと同じ一般宗教として神社政策を避けた。
 皇室ゆかりの神社などは新政府方針に従わざるえず、また、財政基盤の弱い神社もそうだった。(もちろん、本来的には神社が役人に従う、というのは本末転倒で、役人が神社に従うのが正しいはずだ、という不満はあったと思われる。)
 そういう状況で南方熊楠の両親が崇敬していた藤白神社は瓊瓊杵尊の兄にあたる天火明命か、その系統に属する饒速日命を祀る神社で物部氏が祖とした神であったので、独立性が強く政府の方針に従って均一化するのが難しいものであった。また南方の妻の実家は熊野大社の分社で、上皇の熊野詣(実はこれは一回きりではなく何十回も参拝された上皇もいらっしゃります。)で有名ですが、特別皇室との縁が深い訳でもなく、出雲大社同様独特な部分が多く、やはり均一化には向きません。背景としてそういった事情もあったのでしょう。

 明治三十九年の「神社合祀令」は「合祀」とは言うものの、実態は新政府にとって利用価値のない神社の廃止であった。この時代明治維新を主導した国学者や神道崇敬者は政争等によりほぼ一掃されるか影響力を失うかしてしまい、代わって儒教的な長州派が実権を握っており、また神社政策も形式化し民意掌握のための手段となってしまっており、古い信仰の残る紀伊國などの神社を中心に全国七万社を取り壊した。(逆に新政府功労者などを祀る「神社」なるものを多数建設するが、薬師如来の化身とか考えられた徳川家康以降は稀な事で、孝明天皇を祀る神社すらない。※ 民間で創建された神社はあるとの事。)

 南方熊楠は新政府の神社合祀令に反対し、新聞に批判を投書したり、神社合祀に関する意見を書簡で送り反対運動への助力を求め、時には集会に乱入し投獄されるなどの反対運動を行った。またこの運動は長期に渡り、南方自身家計の悪化に苦しめられたが、米国政府からの仕事の依頼を運動を理由に断るなどして資金難ながらも運動を継続した。その内、南方熊楠に共感した柳田國男(後に民族学者として知られる:当時内閣法制参事官)が南方の批判を印刷して配布、国会議員の中村啓次郎、紀州徳川家の徳川頼倫らも南方の運動に呼応した。


【南方熊楠の主張】
(1)敬神思想を薄くする
 合祀そのものとは別の問題として公務員として新たに神職に就いた者には資質の劣るものもおり、国民を共感を得られない事も指摘している。また合祀によって国庫からの予算が増え残った神社は財政的に安定するはずながら、神田などを失い返って困窮し御神体が雨ざらしになっている神社の神職に問い、修理する予算がないと聞いた事例を報告している。
(2)民の和融を妨げる
(3)地方の凋落を来たす
(4)人情風俗を害す
(5)愛郷心と愛国心を減じる
(6)治安、民利を損じる
 合祀反対の住民が神社を焼き払った例などを報告している。
(7)史蹟、古伝を亡ぼす
 これは実感できる。筆者も明治初期はまだ平田派ながら国学者の影響もあり復古的な意味もあったが、国学者が新政府から疎遠にされてしまってからは古伝の忘却著しく歴史研究的な意味で深刻な影響が、確かにある。
(8)学術上貴重の天然紀念物を滅却する

南方熊楠によると「世に喧伝する平田内相は報徳宗にかぶれ、神社を滅するのは無税地を有税地とする近道であるとして、もっとも合祀を励行されたという。どうして知らないのか、その報徳宗の元祖二宮氏は、田をむやみに多く開くよりは、少々の田を念を入れて耕せ、と説いたのではなかったか。たとえ田畑を開け国庫に収入が増えたとしても、国民が元気を失い、我利に努め、はなはだしきは千百年来の由緒があり、いずれも皇室に縁故ある諸神を祀っている神社を破壊、公売するのだから、見習って不届き至極の破壊主義を思いつくようでは、国家にとって何という不祥事か。」との事。

 両親が藤白神社の熱心な崇敬家、恩師は本居国学の系統に属する人物で、妻は宮司の娘であった南方熊楠は国学や神道の伝統についても深い見識があり新政府が行っていた神社行政関係者向けの講習会で、大変に不勉強な者が集まっている事も指摘しているが、現代目線で見ても、やはり的を得ている様に思われる。


南方熊楠(博物学者)
柳田國男(当時公務員)
中村啓次郎(国会議員)
徳川頼倫(紀州徳川家当主)
等の活躍や、無数の氏子、神職等の尽力により、最終的には明治四十四年に和歌山県で未合祀社の存続を認め、合祀政策は放棄されたが、この間に多くの伝統や古伝などの文化が失われた。

大正二年には柳田國男が南方熊楠をたずね紀伊國田辺を訪問した。(直接合うのは初めてであった模様)
昭和四年には昭和天皇が田辺沖にて南方熊楠の講義を聴講。

最終的には南方熊楠の運動は報われたが、代償は大きかった。神社局設置からの本格的な神道弾圧によって日本人の精神性はすっかり失われてしまった。結果、最早新政府は内部を掌握出来ず、有能な人材を排除した結果、外交もままならず、昭和天皇の御尽力にも関わらず、外交的に圧倒的不利の状況で戦争に突入し、戦後は連合国に媚びて、かの「神道指令」を出し、この本来の伝統を全否定する文言を実質的な「教義」にしてしまった。最初から神道の独立性を担保しておけばこうはならなかったであろう。この点は皇帝や国王の介入を否定して基本的に政治よりもより高尚なものという立場を取った西洋の教会や、武家の介入を否定して織田信長と戦った高野山(一進一退であったが、御祈祷をしたところ信長が家臣に裏切られて死んでしまい、勝利)、鎌倉幕府に不介入を約束させた紀伊國の仁和寺荘園、南朝支持をとって北朝に対峙した住吉大社の方が健全であっただろう。



2016.12.02 五瀬





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