千早城




神儒習合について



 「廃仏毀釈」という言葉があります。相当数の方々が誤解している部分でもあるのですが、これを「国学」に起因するものと思っている方も多いと思います。しかしながら、実際にこれを主導したのは儒教の系統であり、いわゆる水戸学も内容としては儒教の系統に属します。また、江戸時代に主流と言える程になってしまい、最早完全に除外して考える事は不可能と言えるほどのものでありますが、垂加神道に代表されるような「神儒習合」の思想を抜きには、この問題を考える事は容易では無いでしょう。

 確かに、国学者達は純粋な神道の復興を理想とし、外来の思想を避ける事を主張したのは事実で、その原点でもあります。しかしながら、国学者達が主張した排斥すべきものの第一は儒教にあり、明治維新の後仏教排除の姿勢を示した水戸学(儒教:朱子学派生)、松下村塾塾生吉田松陰派(儒教:陽明学)、神儒習合論者(主に朱子学系)は、本来の国学から見れば、まず第一に排除すべき対象そのものであり、国学の大家、本居宣長は儒教については激しく非難したものの、仏教については批判はすれども、そこまで激しくはなく、実際、浄土宗の寺と良好な関係を保ち自ら和尚に習い戒名を作るなどした事を見ても、国学というのは、到底、仏教排斥にまで至る程のものでは無かった事が分かります。ただ、残念な事に本居宣長の没後の弟子を自認し「国学」を名乗る平田派国学はむしろ漢学の影響を排し切れず、儒教側と似た方向性を持つ事になります。

 なぜ儒教が、これ程までに仏教を排斥するのか不思議に思う方もいらっしゃるかも知れません。確かに「鬼神を語らず」という孔子の姿勢は仏像などに対して批判的であるのは分かります。つまり、孔子像には御利益がありませんが、仏像には御利益があると理解されていたので孔子の思想から言えば忌むべきものという事になります。しかしながら、仏像の顔面を破壊したり首を分断して捨てる、という様な過激な廃仏は明治維新に特有のものと思われます。勿論、これは世界初の事柄ではなく、16世紀ごろには儒教が独自に発展したものが朝鮮半島で国教化され、文字道り、日本よりも先に仏像の破壊や出家の禁止などが発生しています。山口県のホームページを見ると、長州の萩では朝鮮通信使から優れた文化を学んだ、とあり、地理的な関係もあり、また山口県のホームページにもある様に地元では萩を栄えさせたとされる大内氏が朝鮮系渡来人であったという事もあり(吉田松陰はこの一族の出身でもある)、長州の儒学者は朝鮮を理想とする部分が大きかった様です。これは、長州と同様に朝鮮人捕虜を多く抱えた薩摩とは対照的で、薩摩の場合は朝鮮系の者は移住や日本人との婚姻が制限され、武士になっても下級武士止まりだったのに対して、長州は朝鮮人捕虜の末裔をより重要な地位に付けています。藩政改革を行った村田清風、高杉晋作や伊藤博文とも交流のあった御殿医の李家文厚(家録五百石:五百石は御三家勘定奉行(陸奥宗光の父など)に匹敵)、乃木希典など、薩摩の朝鮮系下級武士が維新後、名前を変えたり養子縁組で家を変えたりしたのとは対象的に、長州では江戸時代から重用されており、長州というには朝鮮贔屓、今風に言う「韓流」とか「親韓派」であった事が分かります。
※ 山口大学の木部和昭教授の論文「萩藩における朝鮮人捕虜と武士社会」によると村田清風の祖先は朝鮮出兵の捕虜で長州藩の藩士となった村田久右衛門定信であるとの事。
※ 神戸大学紀要の論文「壬辰・丁酉倭乱における朝鮮人被虜の末裔 :乃木希典の 由緒」(添田仁,2006年)によると乃木希典の祖先は「朝鮮國之人」と「藩中略譜」に掲載されているとの事。
(近畿などとは違って長州では朝鮮系は名門のようで、調べれば調べる程、朝鮮系優遇が多い様に思えて「縁故主義」にすら感じてしまう。)

 おそらく明治維新の後は朝鮮を模範とする長州の儒教学者の影響もあって廃仏毀釈という朝鮮での仏教弾圧の焼き増しの様な行為に出たものと思われます。関東では唐土の人気があった反面、朝鮮の人気は長州程ではなく、近畿に至っては元々、寺社が多く儒教普及以前からの古伝を抱える上に(紀伊に至っては「現代の一般的な敬語」という儒教にとても相性の良い「新」日本文化すら成立しなかった。※ただし、他の地方で出来たものを借用して使う。また古来から存在する敬語は、当然あるが、後に形成された敬語が無いという事。)、紀伊国の本居宣長派による漢意(からごころ)批判や京の光格天皇の復古的傾向などもあり、唐土や朝鮮の人気は落ち目でした。

【朝鮮の仏教弾圧を紹介する記事】

『男の着物』(http://www.iokikai.or.jp/
kimono.htm)というサイトには、無残にも首を切り落とされた仏像の姿が掲載されています。朝鮮の仏教弾圧は16代朝鮮王仁祖(在位1623年-1649年)の僧侶追放令により、より一層過激化したとの事。※なお、一部で仏像破壊を豊臣秀吉によるものとする説があるが、豊臣秀吉は方広寺を建立するなどしており、仏教諸派との対立はあったが仏教そのものを敵視していた訳では無かった事は多くの知るところである。


【日本の仏教弾圧を紹介する記事】

オンライン百科事典Wikipedia(https://ja.m.wikipedia.org/)には1868年ごろから始まった日本の廃仏毀釈によって首を切断された神奈川県川崎市の仏像が紹介されています。



 私個人としては江戸時代に神仏習合と勢力を二分した神儒習合については、全てを否定する事は出来ないものの、やはり本筋ではないものであると思います。

 確かに、江戸時代の神道では「徳」を非常に重要なものとして考え、「帝が備えるべき徳」いついての論説などが多く見られ、「三種神器」が天皇の徳を表したものであるとか、天皇というのは、中国でいうところの天子であって、こうあらねばならぬ、とか、儒教を基礎にして、殊更に「天皇は中国の天子と同じである」、「当然君子であって無二の存在でもある」、「従って天皇は正当性が無くては駄目である」、「天皇の正当性とは徳どあるので、天皇は徳を積む為に、あれしろ、これしろ」、「いやいや、三種神器であって、物があれば誰でも良い」などと神儒習合は、日本に儒教下の中国や朝鮮を当てはめて、そういうもので無いといういけないという様なものである訳です。この点は神仏習合の様に、日本のあり方を強引に形式として外国に合わせるのではなく、インドの考え方を利用したり、「神前でインドの説を唱えれば神様が御喜びになるはず」という様な柔軟なものではなく、固っ苦しいものであったと思われます。

 近年でも、実は似たような例があり、いわゆるマルクス経済学が日本に入って来て、ソ連が隆盛期には、確かに、このマルクス経済学は世界的に主流となり、今でもその時代を考察する上では「知らない」とは言えないものではあります。このマルクス経済学は日本では西洋での分析結果を日本に当てはめて、結果的に日本は西洋と同じ過程をたどるという理屈を作って、無理に理屈に実態を合わせようとしていた時期があったそうです。しかし、これは限界に突き当たりました。つまり近代的な賃労働の形態は繊維産業における産業革命から始まるという教義から、繊維産業の産業革命以前の労働を「奴隷制」と見なしており、若手の経済学者が「友子」と呼ばれる鉱山労働者の互助組合を端緒に研究を進めた結果、繊維産業以前の日本の江戸時代の労働の形態がすでに近代的な賃労働の形態を備えていた事を発見し、「日本も西洋同様共産主義革命に至る」という予言が、少なくとも「西洋同様」でない事を証明してしまい。台無しになったという事があります。勿論、それを発見した学者は主流派から弾圧されましたが、他校である東大には意外にも党利党略と学術的結果を分けて考え受け入れる学者が居り、東大関係の出発物で発表するなどして、抵抗し最終的にはこの学説は現在も定説になっています。(また、退職後であるにも関わらず、東大の教授陣らは講演を依頼し、その方も東大での講演を機会に活動を再開して、現在も出版などでは現役である。)

 要するに、外国の形式を無理矢理に日本に当てはめようとするやり方は無茶が多いのです。なぜかというと、伝統や歴史というのは、当然既に起こった事を対象としており、これからしようとする事を対象とする工学や医学とは異なるものであって、昔起きた事を「儒教的に見ればこういう動機で行ったのであって、儒教的にには、こういう義によって皆賛同したのでなければならない」と言うのは、嘘であって、儒教なんかこれっぽっちも考えてない時代の人達に儒教を適用すると言うのは無理なのです。つまり、中国で起きた事は、儒教が想定している中国の伝統や文化を持つ人達が考え行った事であって、それが基礎だから中国の伝統や文化を基本とする儒教の理屈に合うのであって、日本の伝統や文化を基礎とする人達の行動はこれでは解釈出来ないのです。これは儒教というのが、仏教やギリシャ哲学の様に極めて普遍性の疑いの少ないものを求めるのではなく、「女人と小人養い難し」と言うのような、まるで「生活の知恵」みたいな固有の、普遍性に乏しい一例を中心に組み立てられた理論であるからです。

 一例を上げましょう。儒教で言えば、下記の事が言えます。
・君子は徳が無ければいけない。
・年長は年少に勝る。

当たり前の事に思えるかも知れませんが、日本ではそうではありません。

例えば、神武天皇は15歳で妻を娶り、子を設けて太子となりました。
※儒教が適用出来ません。神武天皇が太子(後継者)となった時、長男の彦五瀬命は健在であり、当然、年長です。日本書紀によれば神武天皇が特別聡明であった事が理由とされていますが、彦五瀬命が暗愚であった訳でもなく神武東征は父であり当時君(きみ)であったはずの鵜葺草葺不合命を差し置いて神武天皇は他の兄も含め(日本書紀)、または二人で(古事記)彦五瀬命と相談し、神武東征という一大決断をしてこれを実行、彦五瀬命は紀伊での戦いで重要な判断をするなど知力、体力ともに十分聡明であったと考えられます。

 この様に、神武天皇以前の歴史に関しては、天照大御神から任じられた天忍穂耳尊から譲位された瓊瓊杵尊が兄の天火明命を差し置いて豊葦原の瑞穂国の君として降臨したり(天火明命は別途東部に降臨して子孫もあり)、君を差し置いて神武天皇が東征を決断したりと儒教的には矛盾だらけですが、「徳がない」訳ではなく日本ではどの尊も尊敬されています。
 そこで、漢意(からごころ)に影響された後世の者達は、こう考えます。「神武天皇以前は天皇ではない。従って関係がない」と。

 実際は、おそらく日本書紀にある神武天皇の太子即位に関しては、そもそもその時代「太子」なるものは無かったと考えられます。つまり「後継者となった」という意味で「太子」という言葉を後世に使ったのでしょう。そう考えると日本書紀は読みやすくなります。つまり、「神武天皇は15歳で妻を娶り、世継ぎを設けたので後継者として決定した」と読めます。この時代長子相続の考えは無かったと思われます。長子相続が無いのであれば、天照大御神系の地上に於ける最初の君である瓊瓊杵尊が兄を差し置いて降臨した事も矛盾ではありません。
 また、神武東征に関しても、日本には元々、「君子」という発想がなく、唯一間違いのないものは天照大御神による「天壌無窮の神勅」であって、天照大御神の子孫が日本を治らす(「知らす」と書く事もあるが意味は統治の事)べきであるという内容です。明治以降はこれを「萬世一系の天皇が」と解する事があるのですが、「一系」は書いていません。素直に読めば「子孫が統治すべき」であって、おそらく鵜葺草葺不合命の時代は「徳を備えた君子」や「天子」という「一君万民」の様な発想はなく、「一族」として統治していたものと思われます。

 ところが、江戸時代には儒教や神儒習合の影響もあって、「天皇」すら「徳が...」とか、「三種神器が徳を表し...」という中華風の説明しかできない者が蔓延していた訳です。そこで、紀伊の本居宣長は、ほぼ忘れ去られていた「天壌無窮の神勅」を基礎に据える事を訴える一大改革を行った訳です。これは儒教派にとっては不都合であり、国史教科書が作られた当初は採用されていなかった様ですが「萬世一系の事も言っている!」などという変な解釈を付け加えるなどして、後には冒頭に書かれる様になった訳です。



日本書紀の「天壌無窮の神勅」とは、

葦原千五百秋之瑞穂國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之隆、當與天壤無窮者矣

【意訳】(とよあしはらの ちいほあきのみずほの国 これは、わが子孫が きみ であるべき地である なんじ皇孫 治めるなさい 行きなさい あまつひつぎの栄えは まさに天地が終わりなき如くある)


つまり、「天照大御神の子孫」であるという事が、この国の「きみ」(「王」という漢字は中国の王に意味が近いであろうと後世の人が当てた字であるので「きみ」と言った方が良いだろう。)の条件であるというとこです。ここで「条件」といったのは中国や朝鮮に偏った儒教学者の定めたものではなく、天照大御神によって示されたという点が重要です。





2016.11.21 五瀬





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